『傷心のピンクローズ』


 穏やかな昼下がり、佐伯恵那は意外な光景を目にした。
「……あれって、相良くん」
 校舎の壁に凭れ、相良宗介が小さな呼吸を繰り返している。
 彼に関して、恵那は苦い思い出を持っていた。
 ラブレターを下駄箱に入れたものの、本人の勘違いによってえらい騒ぎとなった。
 あげく、彼に犯罪者のような扱いを受けた。何故か。
 それらすべては、恵那の心を引き裂くには充分な威力を持っていたが、それでも、
彼を嫌いにはなれなかった。

 注意深く、宗介に近付いてみた。なるべく、彼の警戒心を煽らないように。
 彼の目前で、ひらひらと手を振ってみる。
 ともすれば、恵那の手を強く握って捻られるなんて物騒な想像もつくのだが。
 それはなかった。
「……寝てる」
 宗介は、意志の強そうな瞳を閉じて、穏やかに眠っていた。
 
「……ちょっとくらいなら、いいかな」
 恵那は彼の横を陣取って、ちょこんと腰を下ろした。スカートの中を覗かれるのを警戒して、嫌々ながら 地面の上に正座する。
 こうやって、彼の寝顔を見るのは生まれて初めてだった。
 いつも凛々しい表情からは想像もつかないほど、あどけない少年の寝顔。
「……意外。睫毛、少し長いんだ」
 眠っている宗介の顔をまじまじと見つめて、恵那は小さく微笑んだ。
 できれば、ささやかな幸せが続けばいい。
 新しい発見を、自分が独占できれば。

 と。
「あ……」
 恵那の肩に、とん、と重みが加わる。
 宗介本人も知らないうちに、寄りかかってきたのだ。
 ――ひゃー……役得かも……。
 不謹慎にも思って、顔をほのかに赤くする。
 彼の髪から、清潔感のある石鹸の香りがしてきた。
 それに混じって、少しきな臭い匂いもしたが、それはどうでもいい。
 ――あまり、身だしなみとかに気を使いそうにないものね。
 失礼なことを思い浮かべながら、恵那は彼の髪をそっと触ってみた。
 硬くてごわごわしているように見える彼の髪は、思いの他柔らかかった。

「……」
「!」
 不意に宗介の唇が僅かに動いて、恵那はぎょっとした。
 が、しばらくすると穏やかな呼吸を繰り返すだけで。
「……ね、寝ごと……」
 ほう、と安堵の溜息をついた。
 しかし。
 彼の寝顔を見ているのが、何故か辛くなった。
 何でだろう。
 考えあぐねているうちに、恵那は一つの結論を思い立った。
 それは、自分にとって一番辛い結論だったけど。

「……む」
「あ」
 じっと見ていた宗介の表情に、変化が起きた。
 黒い瞳が注意深く辺りを見回し、隣にいる自分に気が付いたらしい。
「……佐伯か」
「ご、ごめんね」
 慌てて謝ると、彼は『問題ない』と簡単に答えた。
 今更恥ずかしくなって、恵那は立ち上がった。膝についた土を手で払い落とす。
「こちらこそすまない。少し立て込んだ用事があったのだが、疲れていたのでな。
少し仮眠を取っていた」
「……用事って?」
 聞いてはいけないことなのだろうが、つい彼に聞いてみる。
「うむ。生徒会に拾得物の届出があったのでな。所有者を探している」
「拾得……ああ、落し物ね」
「肯定だ」
 宗介は、言いながら懐から手帳のようなものを取り出した。ビニール地のカバーに水色の表紙を使った それは。
「あ!それ、私のスケジュール帳!」
 思わず、声を張り上げた。3時間目の教室移動の際になくして、ずっと探していたものだ。
「君のものだったのか。……念のため、確認させて貰うが」
「ええ。一番最初のページに書いてあるわ」
 宗介は、スケジュール帳のページをめくった。恵那本人の個人情報を書き込んであるので、間違いは ないはずである。
「――うむ、これは、確かに君のものだ」
「よかった。でも、どこで見つかったの?」
「視聴覚室だ。ちょうど、千鳥が拾ったのだが」
 手帳を手渡しながら説明する宗介に、ふと胸が痛んだ。
 なんと表現すればいいのだろう。ちくりと針が刺さったような、そんな痛み。
「ありがとう、相良くん。千鳥さんにも、よろしくね」
「うむ。伝えておく――俺はまだ仕事が残っているので、これで」
「うん」
 宗介は、恵那の前から走って去って行った。
 
 その姿を見送ってから、恵那は呟いた。
「完璧な失恋――かな」
 自分では敵わない――そんな確信があった。
 彼が寝言で呟いた言葉は、明らかに自分ではない、あの女生徒の名前だったから。
 潤んだ目元を拭い、ポケットから小さなリップスティックを取り出す。
 それを少し眺めて、恵那は微笑んだ。
「――悪戯にしては、性質が悪かったかな」


「……ソースケ……」
 その頃。
 宗介は千鳥かなめの修羅のような形相に、脂汗を垂らしていた。
「何か、千鳥」
 その頬には、淡いピンクのキスマークが描かれていた。