侵蝕


 侵蝕されている心。
 それに気が付いたのは、いつだっただろうか。

 低い、艶のある囁きに。
 ふと顔をあげれば、綺麗な顔が優しく笑みを形作る。
 でもそれと裏腹に、指先は妖しく蠢いて。
 思わず身をよじると、追いかけるようにまた激しく繰り返す。
 そして。
「!?」
 深夜。
 とんでもないものを見た顔で、宗介は目を覚ました。
 肩で息をして、そのうち深いため息をひとつ吐く。
「……夢か」
 ひとり呟いた宗介は、汗で湿った髪をくしゃくしゃと掻き回した。
 

 夢にしては、やけにリアルだった。
 すぐ傍で、あの囁く声が蘇るようだ。
 艶の含んだ、低く優しい声で、呼ばれる自分の名前。
 男にしてはややほっそりとした、でも力強くて器用に蠢く指。
 しなやかな筋肉をその身に貼りつかせた、自分とは大差のない身体。
 それらすべてが、彼しかいない部屋に存在しているような。
 そんな錯覚。
 

 思えば、何でこんな事になったのかとひとりごちる。
 別に、どうでもいいことではないだろうか?とか。
 でも、これは現実だ。
 過去に積み重ねてきた事実は、すでに消えようもない。
 男――自分の同僚である、年齢もそれほど変わらない青年――と、身体を重ね合う関係になっていた ことは。


「……こういう夢を見る、ということは」
 抱かれたいんだろうか、とあらぬことを考える。
 答えは――どちらともいえない。
 会う度に求められ、仕方なしに応じているから。
 それだけだ。
 別に求めているわけではない。
「……気分転換でも、するか」
 真夜中の部屋で、宗介の呟く声だけが響いた。


 パジャマの替わりに着ているスウェットと下着を脱ぎ捨て、バスルームに入る。
 蛇口を捻って湯を出してから、ちらりと鏡を見た。
 鏡に映る自分の鎖骨辺りに、小さな跡が一つ。
 薄い赤をしたそれは、よく見ればキスマークとやらではないか、と思った。
「……あの馬鹿」
 顔をしかめ、小さく呟く。
 そういえば、昨日までメリダ島の基地にいたことを思い出し、これもその滞在中に付けられたものだろう と確信した。
 学生服で隠れるから別に構わないのだろうが、それでも。
「あいつは、何を考えているんだ」
 と、ひとりごちるしかない。
 
 でも。

「……」
 宗介は鏡の中にいる自分のキスマークを、そっと撫でてみた。
 これは、独占されている証?
 それとも、自分が彼に侵蝕されている証?
 小さく、唇を動かして。
 彼は、いない男の名を呼んでいた。


 結局、身体を洗うのはやめにした。
 せっかく湯を張ろうとしたが、それは明日にでも洗濯に使えばいい。
 ただ、服は脱いだままだった。
 ベッドに潜り込んで、枕に顔を押し付ける。
「お前が、悪いんだ」
 小さく言って、宗介は憮然とした顔をした。
「お前が、こんなことをするから……」
 彼の指先が、ゆっくりと胸の辺りを這い始める。


 いつか、彼は笑って言った。
『俺、本当はどうなんだろうな』
 何が、と尋ねた宗介に、軽く片目を瞑って。
『本気でお前を、俺のモンにしようかとか、な』
 あの時言った言葉は、冗談めかしたものだったのに。
 それが、いつしか本当のことになろうとしている。
 そして、望んでいるのかもしれない。


 くぐもった声が、遠く感じる。
 シーツを頭まで被り、腰を浮かせて。
 枕に埋めている顔が、わずかに上気している。
 まだだ。
 そう、何の根拠もなく思った。
 まだ、こんなものじゃない。
 いつも与えられる、発狂しそうなほど激しい快感は。
 それにはどうすればいいか。
 宗介は、答えを知っていた。
 

「――!!」
 声にならない叫びと共に、宗介の身体が横になる。
 少しの痛みと、望むものが与えられた快感に、のたうち回る。
 止まらない――そう思った。
 自分を犯している指は、始めは一本だけの筈だった。
 それがいつしか3本に増えていて、縦横無尽に掻き回す。
 もう一方の手は、すでに硬くなった己を揉みしだいていた。
 知っている。
 いつも、あいつはこうやって自分を抱くのだと。
 優しい声で、器用な指で、それから――

 
「あ、ああっ!」
 甘ったるい悲鳴と共に、身体が跳ねた。
 自分が、一番変な気分になるところ。
 そこに、指先が捉えていた。
 気が、狂いそうになる。
 身体が熱くて、気持ち良くて、気持ち良くて――
 三本の指が、身体の奥を強く抉った瞬間。
「……!!」
 声にならない嬌声と共に、彼は果てた。

 
 ぼんやりと、宗介はつい今しがたまで犯していた指を眺めていた。
 白く濁った粘液がまとわりついているのは、この間抱かれた時の名残だろうか。
 そっと、その指についている粘液を舐めとってから。
「……やはり、シャワーでも浴びた方がいいな」
 ぽつりと、疲れた声で呟いた。


 侵蝕されている。
 それに気付いた時、どうなってしまうのか。
 彼は怖くて、想像をしてはいなかった。
 でも。
 気付いた。
 いや、気付かざるを得なかった。
 侵蝕されている、心に。