小説『BRAKERS』プロローグ


Prologue



 東北地方は、遅い春を迎えようとしていた。
 しかしその広い東北地方―――某市―――の一部の地域だけ、 下界と完全な遮断がされていた。
 そう、遅い春がやってくるという事に興味すら持たない人々が、そ の中にはいた。
 ―――阿須市河(あずしがわ)刑務所。
 ここに収容されている受刑者は、多くが精神を極限まで研ぎ澄ま せながら絞首刑の執行を待つ者―――または終身刑の判決を下さ れ、生きる意味を失った者ばかりだった。
 そんな、外部との接触すらも許されないような刑務所に、変化が起 きたのは確かだった。
 誰も予想すらしなかった、ささやかな事件だったけれど。
 その事件は、たった一人の青年によって起こった事―――それだ けは確かな事だった。

 その日。
 阿須市河刑務所内の職員は、突然決まった来客に天地がひっくり 返るほどの驚きを隠す事が出来なかった。
 その来客の申請した内容もあって、何回も撤回をさせるように仕向 けてはみた。
 だがこの来客の意思は変わらず、結局この突然の来訪を許さざる を得なかった―――それだけは確かだ。
 そんな訳で、この日の正門前には、数人の歳を経た男たちが直立 不動のまま来客の到着を待ち受けていた。
 皆、同じ鮮やかな青の制服に身を包み、目深に正式の帽子を被っ ている。
 ただ違うのは、上着の襟元につけているバッジだけだ。
 「―――来た」
 ぽつり、小さな声で。誰かが言った。
 黒い車が、県道を外れた私有道路の中を通ってきた。誰もがベン ツとかの高級車を予想していたが、それに大きく反していた。
 近づいて来たのは、ちょっと値に目をつぶれば手に入る中級クラス の乗用車―――つい最近モデルチェンジしたセダンである。
 車は、何事もないかのように男たちの目の前で停車した。その男 たちの緊張感が、極限まで高められる一瞬。
 車から、一人の男が降りる。けれど『男』と呼ぶにはまだ年の若い せいもあってか、男たちの誰もが呆気に取られていた。
 ―――こんな若造が?
 誰しも、そう思ったことだろう。
 しかしこの男―――青年―――は背筋を伸ばして男たちを軽く見 た。
 くせのない、真っ直ぐな黒い短髪。体型も、自分たちに比べれば ずっと細身で、どこか中性的とさえ感じる。
 近視なのか、フレームのない眼鏡を掛け、タートルネックのシャツ からダブルのスーツまで、黒一色で統一している。
 そんなどう考えても自分たちの子供と同じ年齢くらいにしか見えな いこの青年は、男たちを前に丁寧に一礼した。
 「歓迎して頂いて、感謝しています」
 口調はやや低く、それでいて涼しげな声だった。慌てて男の一人が 毅然と背筋を伸ばし、青年と同じように一礼した。
 「お待ちしておりました」
 それだけ言ってから、少し不安そうに付け加えていたが。
 「…ええと…武藤…さまは?」
 「僕が、武藤 零ですが。それが何か?」
 少しの迷いも感じないはっきりした口調で言葉を返した青年に、彼 は慌てて再び頭を下げる。
 「申し訳ございません。我々よりもずっとお若いとは存じ上げませ んでしたので…」
 「いえ、お気になさらず。皆、そう言うでしょうから」
 変に切羽詰った口調で弁解すると、この青年―――武藤はいとも 簡単に言葉を返した。
 「ああ、ご紹介が遅れました。私は、この刑務所にて所長の任を任 されております…」
 「ええ、お噂はかねがね。ありとあらゆる凶悪な受刑者を束ねる、 勇気ある所長さんと伺っています」
 まくし立てるように自分を名乗ろうとしたところで、武藤は変わらな い涼やかな口調で言葉を掛けてきた。
 「あ、ありがとうございます」
 こんな若い青年にぺこぺこと頭を下げる事が一種の屈辱にも感じ るのだろうが―――少なくとも、所長という肩書きが何の意味も成さ ないほどのプレッシャーのようなもの。それが、この30にも満たない であろう武藤から感じ取っていた―――それだけは確かだ。
 他の男たちの方は、このあまりの奇妙な光景にしばし呆然と見つ めながら、いつもとは違う所長の男の態度に半ば小気味良ささえ覚 えていた。
 何故なら、いつもの態度は刑務所で働く男たちには常に威張り散 らしていて、何かトラブルがあればすぐに部下の怠慢の結果である と責任を押し付ける男だからだった。
 そのくせ、何かと『口答えをすると絞首台に上らせる』などと脅した りしていて、はっきり言ってしまえば己の都合のみで生きているタイ プの男だったのだ。
 「それで」
 ふと、武藤がこの男を真っ直ぐ見て言葉を切り出した。
 「彼との了解は、どうなりましたか?もっとも断られても、僕は引き 下がるつもりはありませんが」
 『彼』。この名前すら出なかったものの、それだけで周囲に緊張が 走った。
 「え、はい。彼も、非常に興味があるということで…」
 取り繕うように返答すると、武藤はただ小さく、
 「わかりました」
 それだけ呟いたのみだった。

 
 刑務所の中は、薄暗いというイメージがある。この刑務所も他聞に 漏れず、昼間という時間帯であるにもかかわらず薄暗い通路が続い ていた。
 今この通路の中を歩いているのは、二人の刑務官。どちらも所長 である男よりも少し若いくらいだが、それでも40代は下らない年令を 重ねた顔つきと体型をしていた。その後ろには、2人に隠れる恰好で 武藤零が歩いている。
 この青年を面会室まで案内するようにと命じた後、所長は責務の 為に所長室へと引っ込んで行った。
 ずらりと並ぶ小さな鉄格子付きの窓を見ることもなく歩く二人の間 には、一種の緊張感が取り巻いていた。
 彼が『会いたい』と希望した相手―――受刑者―――の罪状を 知っているからこそ、である。
 入所が決まった際、刑務官全員が受刑者の資料に目を通すのが 決まりだが、この受刑者のそれは膨大な量のレポートと写真だった。
 レポートはその凄惨な状況を詳しく明記されており、おびただしい写 真は目を背けたくなるような残酷なシーンばかりを写していた。
 この残酷な資料の主役に会いたいという、武藤の意図はわからな い。
 しかし、あくまでも任務であるから―――それだけが、2人の刑務 官を支える、たった一つの精神的な壁だった。
 ほどなく、『面会室』と書いたプレートがついている扉の前につい た。
 ごくり。
 2人のうちどちらかが、小さく喉を鳴らした。
 「ご存知かと思いますが…」
 確認の為に、と付け加えて。刑務官の一人が武藤に説明を始め た。
 「貴方が面会したいと申し出た相手―――受刑者番号1068451 は、残忍な大量殺人の容疑者として逮捕され…その後、終身刑の判 決を受けて当所に入所しています。暴れ出すことのない様我々が監 視しますが、万が一の際は―――面会を中止します。それでもよろ しいですね?」
 「構いません」
 武藤はにべもなく答えた。
 このはっきりした言動に覚悟を決めたのか、刑務官の2人は互い に頷き合ってから、そのうち一人がドアノブに手をかけた。
 
 面会室は、三畳ほどの広さしかない。
 その中央に、プラスチック製の仕切りがある。映画館の券売り場な んかで使われる、小さな1cmほどの穴が幾つも空いたあの仕切り板 だ。
 3人の向かい側に、彼は座っていた。
 「…彼がですか」
 武藤は小さく呟いた。
 「はい」
 それに、刑務官の一人が答える。
 「受刑者番号1068451―――槻浦一弥です」
 武藤は、目の前の男を仕切り越しに見た。
 濃い栗色の、癖のない髪。長すぎず短すぎず、やや不揃いに切っ た前髪は、形のいいやや太目の眉が辛うじて隠れるくらいだ。
 顔の作りは精悍な輪郭ではあるが、目や鼻、口の辺りはどこか繊 細ささえ思わせる。
 体格はがっしりとしていて、大きい。背だって、随分と高いだろう。
 そんな青年が、武藤や刑務官を前に静かな表情を保ったままで 座っていた。
 その一弥の背後にも、2人ほど看守と思しき中年の男が後ろで手 を組んで立っている。
 彼らの背後にも、扉がついていた。同じ通路の所で、面会者と受刑 者が鉢合わせしない為の配慮であろう。
 武藤は彼らをちらりと見やり、少し考え込むしぐさをしてから、やが てきっぱりと口を開いた。
 「彼と、2人だけにして頂けませんか」
 「?!」
 この言葉に、看守の男たちは勿論、武藤の背後に立っている男た ちも驚きの表情を隠せなかった。
 彼らだけではない。目の前で座っている一弥も、少し眉を動かして いた。
 「いや、ですが…」
 言いよどむ刑務官の男に、武藤は表情を変えることなく続ける。
 「これは、一種の賭けです。僕がここで殺されるのならば、それは それで仕方ありません。その時は、その時の僕の運命なのですか ら。…しかし、刑務所の中で人を殺すような無謀な事は、出来ないで しょう」
 「…珍しい事をいうもんだな。あんたも」
 武藤の言葉に、始めて一弥が口を開いた。やや低い口調ではある が、その中に半分面白みを含んだ印象のする声だった。
 「ご心配なく。貴方がたの所長殿には、上手くとりなしておきますか ら」
 武藤はそう言って、静かに笑みを浮かべた。
 「は、はあ…ですが…」
 呆気に取られる男たちを尻目に、武藤はもう一度言葉を繰り返す。
 「彼と、2人だけにして頂きたい…そう僕が言っていたと、所長殿に 言えばいいだけでしょう」
 何とも無謀な提案ではある。
 しかし、刑務官と看守――合計四人の男たちは、結局武藤の希望 をのまざるを得なかった。
 「…かしこまりました」
 しぶしぶ呟いて丁寧な敬礼をすると、彼らはそれぞれの扉を開け る。
 「では、失礼いたします」
 そう言い残して、四人の男たちは二つの扉から出て行った。
 「思い切った事をするんだな。あんた」
 表情を変えないまま、一弥が言ってきた。それに武藤は肩をすくめ て、
 「彼らに、僕のプランを邪魔されたくはありません」
 とだけ、苦々しく言うだけだ。
 「プラン?」
 「ええ。このプランには、是非とも貴方に参加して頂かなくてはでき ないんですよ。一弥さん」
 いぶかしげに尋ねる一弥に、武藤は彼の瞳を真っ直ぐ見て言葉を 切り出した。