「櫂、見なかったか?」 「え?」 大阪市内の、小さなライブハウス。 この日もいつものように、開店までの空き時間を利用した練習を始める予定だったのだが。 朝樹忍は、いないメンバーの所在を尋ねて回っていた。 「またどこかに逃げたの、あの子?」 「おうよ。ったく、困ったなー。今日のステージ、あいつがボーカルなんだぜ?」 忍は、がしがしと頭を掻きむしって言った。180前後の長身に、癖のない黒髪。 なかなか整った顔立ちをしているが、瞳はそれ相応の甘さを一切寄せ付けない。 着ているのは、白のタンクトップにビンテージ物のジーンズ。ウエストの辺りで、デニム地のシャツを巻きつけている。 問いかけられた女性は、よく知っている。彼はこの服装でライブにも出るつもりでいるのだ。 「亮や雅人に聞いてみた?」 「あの二人も知らねーってさ」 尋ねられて、忍はひょいと肩をすくめる。 「……しょーがねえ、ちょっと探してくる」 「すぐに戻ってよ?あんたがいないと、練習始めることすら出来ないんだから」 シャギーのかかった髪をかき上げながら告げる女性に、わかってるよ、と言い残して。 忍は、足早にその場を離れて行った。 その、ライブハウスから少し離れた所。 彼はいた。 短めに刈った栗色の髪に、同じ色の優しげな瞳。青とグレーのスタジャンに白いTシャツ、黒のジーンズ姿で、ちょこんとかがんでいる。 「……おいで……」 ちっちっ、と舌を鳴らす。その目線は、使い込んだゴミ箱のそばに注がれていた。 しばらくして、そこからか細い声がした。 「――……」 「大丈夫……おいで」 何度目かも知れない優しい声を繰り返すと、やがて茶色と黒の斑が入った仔猫が姿を現した。 どうやら、心無い人が捨てた猫らしい。最初は彼に対して警戒していたが、その優しい声と瞳に促されて、ゆっくりと近付いてきた。 伸ばしていた指先をちろちろと舐めてくる仔猫に、彼は嬉しそうに微笑む。 「……よかった。僕の所においで」 猫相手に、優しく語りかける。 すると猫は安心したように目を細め、彼の撫でようとした手にすり寄ってきた。 「――もう、一人ぼっちじゃないよ。僕がいるから」 なあ、と鳴いて懐いてきた仔猫の身体を、彼はそっと包むように抱き上げた。 こんな風に、猫と戯れる日はなかっただろう、と彼は思う。 何故かは分からないが、切実にそう思うのだ。 彼は、自覚していたから。自分が、普通の人間ではないと。 一年前。 彼は、とある施設から逃げた。 そこでの生活は、地獄と何ら変わりなかった。毎日が実験と称して、人間以下の扱いを受ける日々。 ふと思い出したように、よく左腕を眺める癖もついた。一見何の変哲もない彼の左腕には、ある特殊な物質が埋めこまれている。 あの非人道的な実験も、この左腕のせいだと知ったのは、偶然見かけたCD−Rソフトである。その中には、自分と同じ顔をした青年が映っていた。 あまりにそっくりな顔をしていて、自分には双子の兄弟がいるのかとも思ったが、違っていた。 『CD−1487号。君がこの映像を見る頃には、僕はここにはいないだろう。何故なら、僕は組織を裏切るからだ』 でたらめに操作して映し出された再生ムービーは、その言葉で始まった。 白の粗末な実験服を着た自分とは違い、映像の中の『彼』は清潔な白衣と白いシャツを着てネクタイを締めていた。表情も、とても知的に見える。 『僕は、大事なことを君に知らせなければならない。君は、僕のクローン人間である。 今回の実験のために、僕の遺伝子細胞を用いて創られた』 淡々と語られる衝撃的な事実に、彼は呆然と画面を眺めていた。 『僕は、間違っていた。人の命を、簡単に創りだした。そしてもしかすると、簡単に壊してしまうかもしれない。この組織は、すでに狂っているんだ』 画面の中の青年は、静かに涙を流していた。 何故彼は泣いているのか――わからなかった。 断罪なのだろうか。いたずらにヒトの生命を創造したことは、神をも恐れぬ冒涜だと気がついたのだろうか。 もっとも、そこまで考えは及ばなかったが。 『僕は、君に未来を託す。自ら命を断つことも、この組織に生かされる毎日を送るのも、君の自由だ。 でも、僕は君に生きて欲しいと思う。僕自身の、我侭だと判っていても』 語る彼の右手には、一丁の拳銃が握られていた。それをこめかみに押し当てて、まだ彼は続ける。 『このムービーを撮り終えたら、僕は死ぬ。これで、僕の罪が償える訳ではない……そう思っているけれど。 でも、もう終わりにさせなければならない。こんな狂った組織は、永遠に無くなった方がいい。 以前僕は、ある話を聞いた。たった四人で、組織を壊滅寸前にまで追い込んだ少年たちがいると』 ふいに、彼の話題が変わった。 そんな話は初耳だった。あの強大な組織を、壊滅させようと戦った人間たちがいることなど、知らなかったのだ。 『当時の総帥は殺され、組織はばらばらになった。だが、また新しく大きくなろうと動き出している。 どうか、自由を手に入れて欲しい。組織の言いなりにしか出来なかった、弱い僕の代わりに。 願わくば、君の手に自由と幸せがあることを』 その言葉で、ムービーは終わった。 画面の中の青年は、左胸にIDプレートをつけていた。所属番号に写真をはりつけている。 そして、そのプレートには『岡嶋櫂』とプリントされていた。 今まで。 自分の名前は、あの妙な番号だと思っていた。 画面を見たその後、彼はあの青年の名前と意志を受け継ぐ決意をした。 その次の日は、ちょうどあるオークションがあることを突き止め、前日に逃げるための準備を整えた。 オークションの準備で忙しい組織の隙を突いたためか、逃げるのは簡単だった。 自分の力を使って壁を粉々に粉砕し、立ちはだかる敵は、嫌々ながらも排除した。 それから。 流れるがままに一人で逃亡の旅を続け、大阪のとある街に辿り着いたのは9ヶ月も前のことだったろうか。 その日は、とても賑やかだった。街の中は緑と赤で彩られたオーナメントや、眩いイルミネーションで飾 られ、人々の声も活気に溢れていた。 長いとも短いともとれる旅路の果てに見たのは。 見たこともない変な物を使い、楽しそうに歌っている一人の青年。 そして。 「――やっぱ、ここにいたか」 「忍?」 不意に聞こえてきたぶっきらぼうな声に、櫂は慌てて振り返った。 仔猫を抱き上げたまましゃがみ込んでいる彼の姿に、忍は小さく苦笑を浮かべる。 「こんなこったろうと思ったぜ。お前どういう訳か、猫のいるところとか分かっちまうもんな」 「……別に、僕は」 「ああ、俺は、お前が猫を拾うのは全然大丈夫なんだぜ。ただ、せめてライブも終わってからにしとけよ。 沙羅や亮たちが心配してる」 弁解しようとした櫂にそう言って、忍は抱かれている猫の頭をわしゃわしゃと撫でた。 「――それとも、目立つのは嫌か。やっぱ」 「……うん、まあ」 きっぱりと指摘されて、櫂は照れ臭そうに頷いた。 忍は、櫂の性格を内気と判断している。でも彼の才能はその性格に埋もれさせるには惜しい存在で、何かとステージに立たせることにしていた。 「自信持てよ、櫂。お前、マジで歌うの上手いんだからさ」 戻ろうぜ、と促す忍に。 ふと、抱いた猫をちらりと見やる。 「……ところで、この子どうしよう?」 「マスターに預かってもらえ。あの人、あれで結構猫が好きみたいだしな」 「――そうする」 頷いて、櫂は忍と共に歩き出した。 櫂は、こうして『自由』を手に入れた。 たとえそれまでの過程が、普通ではなくても。 たとえこれからの道のりが、どれほど過酷であっても。 櫂は、自由を手に入れるために、この街で生きていた。 |