その日も、いつものように校門の前で待つことにした。 車の窓から見えるのは、ひそひそと囁き合ったり、興奮してじろじろと眺める人の姿。 だが。 この車――クリーム色のベンツ――の主である宮之城幸春にとっては、どうでもいいことだった。 彼はこれでも、仕事中なのだから。 「……今日はちょっと遅いな」 小さく呟き、腕時計を覗き込む。 時計の針は、午後5時を回っているところだった。 「門限が煩いってのに……あのお嬢は」 かりかりと頭を掻き、小さくため息をつくと。 彼は仕方ないとばかりに、ドアを開けて運転席を出た。 出てきた彼に、視線が集中する。それを平然と受けとめているが、何故こうなるのか分かっていなかった。 無理もない。 高価な車から出てきた人物に、人々は羨望の眼差しを向けているのだから。 すらりとした長身に、無駄な贅肉を一切排除した引き締まった身体。 紺のスーツに、ボタンを一つか二つ外した白のワイシャツ。ネクタイはかろうじてゆるく結ばれて居る程度だ。 肩辺りまで無造作に伸びた髪に同じ色のバンダナを額に巻いたその姿は、整った顔立ちもあいまって野性的な凛々しさを醸し出している。 幸春は、特に自分の姿を自慢しているわけでもない。 かといって、コンプレックスを持っているわけもない。どちらかといえば、身なりには人並みに見られるように気を使うが、それ以上のことには無頓着な人間だった。 しばらくして、キャンパスの奥から彼が待っている人物が現れた。 栗色のストレートの髪に柔和な顔つきの美女だ。 上品な色のスーツにバイオリンのケースを大切そうに両手で抱え、友人らしい女性たちと楽しそうにお喋りをしている。 その笑顔はまさに、人々を和ませる不思議な魅力に溢れていた。 「あ」 彼女は見なれた人物を確認すると、周りの友人に小さく断りを入れて小走りで駆け寄ってきた。 「幸春さま、遅くなって申し訳ありません」 「いや、まあいーんですけどね。それほど待った訳じゃなし」 にっこりと笑いかけられ、幸春は思わず苦笑した。 無邪気に微笑んでそんなことを言われると、どうも苦笑するしか手段はない。 「練習が詰まってるんで?」 「ええ。ほら、サークルの発表会が再来週でしょう?ですから、つい練習に熱が」 「ああ。そりゃ仕方ない。充分理由になる」 ほのぼのと会話を交わしている所に、友人たちが『どなたですの?』とか『素敵な方ですね』などとはやし立てる。 「あ、こちらは宮之城幸春さま。わたくしのボディガードをなさっていらっしゃるの」 「……どうも」 微笑みを絶やさぬまま友人たちに紹介され、幸春は軽く頭を下げた。 彼の仕事は、この女性――都大路佐那子のボディガードであった。 「俺は、もうお前や他の奴らを指導する事はできない」 「――何故?」 ベッドの上で髪を掻き上げながら呟いた言葉に、傍らの少女は呆然と尋ねてきた。 よほど信頼されているのだな、と、少女の切実な瞳を見て思う。 「あなたが必要なんです。私も、他のみんなも」 「いや。お前たちは、もう俺に教えを乞う必要はないんだ」 そう言って立ち上がると、素肌の上からシャツを羽織った。 指定された特注の服を着込むと、彼はもう一度少女を見て。 「次に俺を見た時は、敵だと思え。これが、お前たちへの最後の教えだ」 きっぱりと告げて、彼はその部屋を出た。 「……」 久し振りに見た夢は、彼自身の過去だった。 ベッドから起き上がり、小さく――本当に小さく息をつく。 「……あの時か」 一人ごちて、幸春は部屋に備え付けられたクローゼットを開けた。 そこに入れてあるのは、一着の黒いツナギと一振りの刀。それから、小さな機械などをごちゃごちゃと詰め込んだウエストバッグだけである。 彼は今、佐那子の屋敷にほど近いマンションに住んでいた。 ずっと住み込みで働かないか、と、彼女の家族に散々口説かれたが、何とか説得してここに落ちついたのである。 もっとも幸春自身、もっと簡素なところでもよかったのに、と思う。何せこの3LDKのマンションは、彼一人が暮らすには広すぎるのだ。 下着の上に薄いインナースーツを着て、さらにツナギに袖を通す。 その時思い浮かぶのは、過去の自分であった。 かつて幸春は、優秀と評価される程の『ヒューマンドール』だった。彼の才能を高く評した『組織』の人間は、幼い少年少女たちを『ドール』として育成する為の『指導者』として残らせたのだ。 だが、それは運命を大きく捻じ曲げられる瞬間でもあった。 幸春は、かねてから計画されていた項目の実験材料に選ばれたのである。 『物質』を媒介として能力を開放する『サイキックドール』の実験台として。 結果は、概ね成功といえるものだった。しかし満足出来る結果ではなかったのか、実験チームは幸春の記憶を操作して、指導者としての仕事に戻らせたのだ。 捻じ曲げられて失っていた記憶を取り戻したのは、23歳を目前に控えたある日のこと。 指導中に起きた、事故が原因だった。 「俺は、モルモットじゃない」 呟く彼の手に握られているのは、一振りの剣。全長は1.5メートルほどで、ゲームや時代劇などで見る日本刀によく似ていた。 その、良く手入れの行き届いた刀を調べる。切れ味、柄の具合、その他諸々。 全てにおいて、異常はなかった。 「俺は、人間だ。だからこそ、自分の意志で生きる」 確かめるように呟いたのは、呪文のように何度となく繰り返した言葉。 いや、自分自身の『存在意義』を見出すのに必要な言葉かもしれない。 彼は、実験動物のように扱った奴らが許せなかった。 同時に、自分もそいつらの仲間であった時期を激しく責めた時もあった。 結論として、幸春は一人組織を脱走したのだ。 彼らは、幸春に施した記憶操作が完璧であると信じ込んでいた。それが幸いして、存分に力を振るって立ちはだかる者を蹴散らし、まんまと脱出に成功したのだ。 気がかりなのは、脱走の直前まで指導していた子供たちのことだ。 彼らはどうなるのだろうか。あの後、新しい指導者をあてがわれて、今までのように教えを乞いているのだろうか。 それとも。 幸春は軽く頭を振り、雑念を払う。 心残りがないといえば、嘘になる。 だが、もう決めたことだ。 「――今の俺は、自分がやるべきことをやるだけだ」 呟いて立ち上がると、彼はひっそりとマンションを出た。 「ねえ、幸春さま。お聞きになりました?」 「……何が?」 いつもどおり、ベンツの車内。 佐那子の心配そうな声に、幸春はあくび混じりで応えた。 「昨夜、大きな会社の社長さんが、行方不明になられたのですって。怖いですわね」 「大きな――って、今朝の新聞の三面記事に載ってた奴?」 「そうです。ああ、あの社長さんはどうなってしまうのかしら」 心配そうに胸の前で手を組む佐那子を眺めながら、幸春は冷静に考えていた。 彼は、この事件をよく知っていた。 あの男は、もう二度と表舞台に立つどころか、生活すらできないだろう。 何故なら、自分が―― 「……でもね。安心して下さいませね。幸春さま」 「ん?」 突然、何を安心するのか。 佐那子の言葉に、幸春は眉をひそめた。 「だって、わたくしの危機には幸春さまが現れて下さるのですから。そして、幸春さまの危機にはわたくしが現れるのです。 これは、わたくしたちの運命ですのよ」 にっこり笑って言うバックミラーごしの佐那子に、思わず吹き出した。 その言葉は、彼女の口グセだった。ずっと戦うだけの毎日に飽きを感じて、偶然出会った半年前からの。 「どうして、笑っていらっしゃるの?」 「はは、すまない。そうか、そうだよな」 佐那子の口を尖らせた表情に、何とか笑いを引っ込めて。 彼は、芽生えたばかりの迷いを振り切った。 やっと、歩き出したのだ。 自分の足で。 これからも、戦いの道は続くだろう。幸春は確信している。 けれど、後悔はしない。 彼が自分で歩く為の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。 |