ひかり 久しぶりに訪れた、穏やかな夜。 結城小夜は、ふみこに許可をもらって散歩に出かけることにした。 ふみこが出した条件は、一つ。 『街中でヤタを召喚しない』 それさえ守れば咎めることもしないし、時間にはミュンヒハウゼンも迎えに来てくれ るという。 『女性の一人歩きは危険にございます』 玄関先で言った彼の言葉を思い出し、小夜は少し不思議に思った。 本人に自覚はないが、例えれば清楚な巫女が歩いていること自体が不思議であ る。 いや、それよりも。 常識を知らない(もちろん彼女自身も自覚しているが)大和撫子が夜道を出歩くの は、ライオンだらけのサバンナの中に生ハムを丁寧に巻いた牛を放り出すようなも のなのだ。 それでミュンヒハウゼンは反対したのだが、小夜自身はそのことに全く気づいてい ない。 大神の血筋の探偵が聞けば呆れるだろうし、物静かな導士はこめかみを押さえる だろう。 歩きながら、ふと小夜は考えた。 あの人は、何と言うのだろう。 脳裏に浮かぶ、淡い色の髪の少年。 初めて会った時も、彼は一人歩きは危険だと言っていた。 こうして、出歩いていることが知れたら。彼はいつものように怒るのだろうか。 「あの人は、怒るのでしょうか、ねえ……」 辿り着いた公園のブランコに腰を下ろして、虚空に向かって微笑み……。 あ、と。小夜は気がついた。 今夜は、ヤタを連れていないのだ。 ――いけない。 頭を振り、もう一度空を見上げる。 この街は、星が見えない。修行を積んだ壬生矢の家は、夜になれば満天の星が瞬 いていたというのに。 『巫女姫様』 ふいに、小夜の耳に涼やかな声が聞こえた。 誰の声かと辺りを見回せば、うっすらとした影がいた。 いや、影では、ない。 美しい女。しかし額から生える二本の角は、彼女が異形であることを知らしめてい た。 「ザサエさん?」 『はい、左様にございます』 小夜の問いに、着物姿の美しい精霊は微笑んだ。 「どうかしたのですか?あの人は……光太郎さんは?」 『今は眠っておりまする故、わたくしは主のもとを離れておりまする』 ザサエを従える術者――玖珂光太郎は、今は日向と共に探偵事務所とやらを開い ているらしい。 魔力が見えない彼が、そのありのままでザサエを従えているのは、非常に稀な現 象であるといえる。 小夜も事実、初めは彼女を玖珂に取り憑いた死と飽食の悪霊と思っていたのだか ら。 『巫女姫様は、何故に?』 「わたしは、星を見たいと思ったのです。でも」 小夜は、空を見上げた。 東京の空は濁っていて、見える星が少ない。 「ヤタの力を借りて飛べば、もっとたくさん星が見れたのでしょうね」 『左様でございましょうか?』 ザサエの問いに、小夜はえ、と目を丸くした。 『確かに、この街は星が見えませぬ。けれども』 ザサエは、しなやかな指を都心の方へ向けた。 『主は教えてくださいました。空に星が見えずとも、この街の灯りは美しいのだと』 「灯りですか」 『はい』 都心の灯りは、眠ることなく瞬いていた。 まるで、星が地上に降りたかのごとく、歩く人々を照らし続ける。 小夜はしばし都心の方をじっと眺め、やがてにこりと笑みを浮かべた。 「そうですね。とても、綺麗だと思います」 『それはようございました』 二人は、くすくすと笑いあった。 『巫女姫様、わたくしの願いを聞いてくださいますか』 「……なんですか?」 『あの方を、導いてくださいませ』 「光太郎さんを?」 おかしなことを、と思った。 彼女が光太郎と戦う時、それは幸せそうな笑みを浮かべる。 まるで、彼のもとに在ることが至福なのだと宣言するように。 『わたくしは、いずれ消えゆく運命にございます』 「あなたが?」 式神である彼女が消える時――それは、術者である光太郎が命の灯を消し去る 時でもある。 彼女の発言は、術者がいずれ死に行くことを予言しているのと同じようなものだ。 それを、何故? 『いいえ、そうではございませぬ』 ザサエは軽く首を振ると、空を見上げた。 心なしか、彼女の表情が寂しげに見える。 『いつしか、魔の力が消え行く時。その時、わたくしは消えてしまうでしょう。その時が くるまで、主を守り、共に戦う覚悟にございます。 ですが』 そこまで言って、小夜を見た。 光太郎の傍らで微笑む、妻の顔ではない。 一人の、女性としての顔だった。 『わたくしが消えてしまうと、主は怒るでしょう。その時、巫女姫様に導いて頂きたい のです。 あのお方の為に』 小夜は、胸が詰まる思いで彼女の言葉を聞いていた。 ザサエは、心の底から彼の幸せを願っている。 そしてもしかすると、自分自身も。 「あの人の、為にですか」 『御意に。主の幸せは、私の幸せにございます故』 問いに答えると、ザサエはふわりと浮かび上がった。 『夜は冷えます。そろそろお戻りになられるとよいでしょう』 「そうですね。ありがとうございます」 頷き、ブランコから立ちあがる。 彼女の言う通り、そろそろ戻らなければふみこたちも心配するだろう。 ――あの魔女が心配するのだろうか、という疑問も沸いてくるが、それは置いてお こう。 「あの、ザサエさん」 『はい?』 「今日は、とても楽しかったです」 『わたくしもでございます。それでは』 ザサエは笑みを浮かべて会釈すると、すうっと闇の中に紛れて消えた。 「さて」 小さく呟いて、小夜は歩き出した。 帰る為に。 そして、いつの日か。 彼を、導く光となるために。 |