いとしさとせつなさと心強さと


いとしさとせつなさと心強さと


 今のこの身でも、夢を見ることは叶うのだろうか。
 遠い昔、何故己が鬼となったかも忘れたというのに。
 それでも、望んでいる。


 玖珂光太郎が、ふと背後を振り向いたのは、別に不自然なことではなかった。
「……どうかしたか?ザサエさん」
「いえ。何でもございませぬ。主」
 ふわりと浮かび上がる精霊は、涼やかに応えた。その口調に、一片の迷いもない。
 ところが、光太郎は照れくさそうに頭を掻いて、精霊――ザサエに告げる。
「あのさ、どうでもいいんだけど。そうやって、かしこまったっつーか……丁寧な言い 方はやめてくんねーかな」
「何故でございましょうか?」
「俺、そんなこと言われるほど偉くねえもん」
 口を尖らせるそのしぐさが、年相応の少年特有の愛らしさを見せる。
 可愛い人だな、と思う。
 けれど己が式で、彼が主である限り、この口調を変える気は毛頭ない。
「我が身は主に仕える身。なれば、当然の事でございましょう」
「だってさ。俺は、ただのガキだぜ?」
「餓鬼であれど、主であることには変わりございませぬ」
 さらりと切り返すと、光太郎はますます頬を膨らませた。がりがりと茶色の頭を掻い て、何か考え事をしているようにも、見える。
「……じゃあさ、どうしたらその口調を変えてくれる?」
「我が身が、対等の立場であれば」
 率直に応えた。しかし、術者と式の契約がある以上、それは簡単にできることでは ない。
 それを承知の上で、ザサエはそう言ったのだ。
 言いきってしまうには、己にとって辛い選択だとしても。
 たぶん、彼を愛しているのだと思う。
 この身が人間のものであるならば、あの巫女姫や魔女からも奪ってしまいたい。
 そう思うほどに。


 しばらくして、光太郎は何かを考えついたようだった。
「……そうだな。ザサエさん、俺にキスできる?」
「きす、でございますか」
「そ。それが出来るなら、対等の立場って奴じゃねえ?」
 目を丸くするザサエに、にっこりと笑っていった。
 きす、とは何だろうか。
 しばらく考えて、ふと思い出した。
 いつだったか、光太郎と一緒に面妖な術を使う箱の中で、男と女がしていたこと だった。
 その時、彼が興味津々といった顔で箱を食い入るように見ていたのを思い出す。
『キスシーンって、何か恥ずかしいよな』
 少し恥ずかしそうに笑って、こちらを振り向きながら言ったことも。
「……口吸い、でございますか」
「何それ?!」
 ザサエの言葉に、突然光太郎が笑い出した。
 おかしいことを言った覚えはないのだが、きっとこの辺りは彼と己との意識の違いな のだろう。
 いいのだろうか。
 迷う。己の気持ちがわかっているからこそ、尚更。
「……主」
「いーよ、別に。
 それともザサエさんは、これを命令って取る?」
 悪戯っ子のように瞳を輝かせて、光太郎は尋ねた。
 ずるい人だな、と、初めて思った。
 彼の肌に触れたい。
 彼の瞳に、己だけを映してみたい。
 そんな、内に秘めた欲望を、彼は知っているのだろうか。


「……よいのですか?」
 小さく、尋ねてみる。
 口から精気を取ることも出来る。
 そんな行為を、どうして簡単にしてみせろと言うのだろう。
「いーんだって。俺がいいってんだから」
 ほら、と言いながら、口を突き出してみせた。
 彼の唇に、口付けてしまいたい、衝動。
 命令と取れば、彼は怒るのだろうか。
「……はい」
 やがて、ザサエは何かを決めた。
 

 そっと、光太郎の顔を両手で包む。柔らかく、滑らかな肌。
 食らえば、きっと甘露にも劣らぬであろう。
 だが、食らう訳にはいかない。
 ぎこちなく、そしてゆっくりと。
 彼女は、彼の唇に口付けた。
 初めて知る、というわけではない。鬼となって、あまたの男をこうやって食らってき たはずなのに。
 何故だかとても、新鮮に思えた。
 しばらくそうしていると、息苦しいのか光太郎が少し唇を離した。わずかに開いた唇 の間を逃さず、もう一度重ねて舌をそっと割り込ませる。
 精気を吸い取らぬよう、慎重に、彼の舌を絡めとり、優しく吸い上げる。
 何て心地いいのだろう。
 ただ己の欲を満たすが為に行ってきた行為が、こんなにも愛おしさを湧き上がらせ る。
 名残惜しげに唇が離れると、突然光太郎がぺたりとその場にへたりこんだ。
「主?」
 いけない。やはり間違いだったのだろうか。
 慌てて抱き起こそうとすると、彼は笑みを浮かべて『大丈夫』と告げた。
「……悪い。ちょっと、体の力が抜けただけ」
 少し照れくさそうに笑い、ザサエを見上げる。
 精気を吸い取っていたわけではないのだと分かって、安堵のため息を一つ。
「やっぱ、ザサエさんって大人の女の人なんだな。ドキドキする」
「……私が?」
「うん、何だか気持ちよくて、頭ん中がぼーっとしてる」
 そして、年相応の幼い笑みを浮かべた。
 己を、式と思わず、一人の女として見ていた、事実。
 それが何故だか、嬉しかった。


 以前、ザサエは魔女に告げられたことがある。
『お前の主は、少し特殊だ。魔力を不要と思えば思うほど失われ、やがてお前自身を 消滅させるだろう』
 薄々感づいている、彼の力。
 彼女の言う通り、いずれこの身は消えゆく運命にあるだろう。
 だが、それでも。
『存じております。されど、主を守り、立ちはだかるものを切り伏せることが我が運 命』
 きっぱりと告げた。
 その思いに、変わりはない。


「あの、御身の方は」
「ザサエさん」
 言いかけた言葉を遮り、光太郎が名を呼ぶ。
「俺の名前は、玖珂光太郎。それ以上でもなければ、それ以下でもない」
 彼は堂々と言いきり、そして笑った。
 対等の立場。
 それは、主と式の契約を軽々と超えて、明日への光に導く、強い魂。
「……はい」
「だから、俺はご主人様とか、そんなんじゃねえ。アンタの相棒、それでいいじゃん」
「ええ。そう……そうね」
 初めて、砕けた口調で喋れた。
 何て少年だろうか。
 彼が走るたび、ザサエは思う。
 いとおしくて、その想いを告げられないことがせつない。
 そんな風に、思うことは数知れないのに。
 ザサエはしばしの間目を閉じて、やがてその金色の瞳を輝かせた。
「光太郎」
「ん?」
「わたしは、すべてを賭けて貴方を守るわ」
 艶やかに笑みを浮かべ、きっぱりと告げる。
 それは『相棒』である彼への、誓いの言葉でもあった。


 どんなに愛おしさが募って、叶えられぬ切なさに切り刻まれても。
 想うことが出来れば、きっと心強い。
 貴方を愛し、守り、戦う。
 その誓いが、あれば。