夕方。 子供たちが、家路を急ぐなか。 その間を縫うように、リナはゆっくりと歩いていた。 行く先は特に決めていなくて、気の向くままに足を進めている。 あてのない旅をして、何年になるのかも分からない。 『世界を見て来い』 姉の一言で始まった旅は、いつしか壮大な冒険になっていた。 たとえば、変な服の趣味をした女魔道士につきまとわれたり。 たとえば、偶然が重なってこの世を統べる魔王の一部と戦って、あ げく勝ってしまったり。 たとえば、高位魔族に一目置かれる立場になっていたり。 たった一人の少女が体験するには、壮大な旅路を思い返して。 きっと、姉ちゃんですら気付かなかったかもね。 小さく口の中で呟き、そっと笑みを浮かべる。 そんな彼女の目の前に、懐かしい街の風景が姿を現した。 リナの周りで、一目散に駈けていく子供たち。 子供たちの視線の先には立ち並ぶ家々があり、それぞれ優しそう な女性が彼らを待っていた。 「お母さん、ただいま」 「お帰り、ぼうや」 「ただいま、お母さん」 「お帰りなさい。今夜はシチューよ」 明るい声があちこちで上がる。 と、リナは不意に足を止めた。 「おー、久しぶりだなあ。帰ってきたのか」 彼女の目の前で、嬉しそうに言う声。 旅に出た時から変わらない風貌に、リナは突然駆け出した。 「―――父ちゃん!」 「やっぱり、リナか!」 抱き着いてきた少女を、彼は大きく抱きとめた。 「…しっかし、かわんないわね。父ちゃんも」 「何言ってやがる。若々しいと言え」 「はいはい」 昔から変わらない粗雑な言葉を軽くかわし、リナは父親と歩いてい た。 「でも、どうしたの?」 「なにが」 「どうしてここのいるの?仕事は?」 「ああ、母ちゃんがな。店は任せろって言ってんだよ」 「じゃあ、今日の夕飯は父ちゃんの担当ね」 「いやか?」 「そんな事はないわよ。父ちゃんの作るご飯、美味しいから」 並んで歩くのも久しぶりのことで、リナはずっと父親の顔を見てい た。 小さい頃から、ずっと父親と一緒だった。 様々な躾や旅の基礎、料理から、毒の味に至るまで、教えてくれた のは姉だったけれど。 彼女も知らない大切な事は、全部父親から教わったから。 「どうだ、リナ」 「ん?」 「旅は、楽しいか?」 「まあね。色々ありすぎて、何から話していいかわかんなくなるくら い」 「そうか。ルナも聞きたがるな」 姉の名前が出た途端、リナの表嬢がにわかに曇る。 「…姉ちゃんにだけは聞いて欲しくないような…」 「何なら、俺に聞かせろや。なあ?」 「…じゃ、父ちゃんにだけ。ね?」 「お、ルナや母ちゃんには内緒か」 「姉ちゃんや母ちゃんだと、何言ってくるかわかんないじゃない」 「そりゃそうだ」 明るく笑う父に、リナは小さく苦い笑みを浮かべるのみ。 大好きな父。 口は悪いけど暖かくて、優しい父。 小さい頃から、憧れであった父。 「そういや、お前一人で旅をしてるのか?」 「ううん、今は連れがいるわ」 不意に尋ねてきた父親に、悪びれることなく答える。 「頭の中はくらげかヨーグルトが詰まってるけどね。いい奴よ、結構。 父ちゃんも気に入るかも」 「へえ、男か」 「何を言い出すのよ、父ちゃん」 からかうような言葉に、リナの顔が反射的に赤くなる。 「おー、紅くなって」 「あのねえ!」 さらに紅くなるリナを、父親が楽しそうにはやし立てた。 と。 「…頼れるか?」 「…うん。そいつのお陰で、今のあたしは無茶ができるから」 優しい目で問いかけられて、リナは意外なほど素直に頷いた。 「そうか…。寂しくなるな」 「え?」 聞きかえしたリナに構わず、彼は目の前で腰を落とし。 「…久しぶりにおぶってやるよ」 「いいわよ、子供じゃないんだから」 慌てて拒否する。 「うるせえ、ぐだぐだ言うな」 相変わらず、この人は口が悪い。 そして、一度言い出すと聞かないことも、リナはよく知っていた。 「…もう」 少し顔を紅くして、彼女は父の背にしがみついた。 「…ねえ」 「あん?」 「いつも歌ってくれた唄、覚えてる?」 「ああ、あれか。唄えるに決まってるだろ?」 「そっか」 「お前の方こそ、まだ覚えてたのか。あれ」 「うん。父ちゃんが教えてくれた、たった一つの唄だもんね」 意外そうに言ってきた彼の言葉に、嬉しそうに笑う。 しばらくして。 懐かしいメロディーを、父は口ずさんでいた。 それは、いつも歌ってくれた子守唄。 旋律の優しさが、リナは大好きだった。 そのメロディーが、ふいに途切れ。 「―――女の子ってのは、いつか離れていくもんとは分かってたけど…」 小さく、本当に小さく呟いた父の言葉。 「やっぱ、寂しいもんだな…父親ってのは」 「父ちゃん…?」 聞きたかった。父の言った言葉の意味を。 けれど。 それすらかなわず、リナは彼の背中の温かさを感じていた…。 「あ、気がついたか」 次に目を覚ました時、彼女の目の前にあったのは。 癖のない、艶やかな淡い金髪だった。 「…ガウリイ?」 「まったく、野宿のし過ぎで疲れてたんだな」 彼の声に、リナは夢を見ていたのだと悟った。 「あ、あんたね…大丈夫なの?」 「何が?」 「その…疲れない?なんだったら、降りてあげてもいいわよ?」 何を言っているのか、自分でもよく分かっていない。 ただ視界がいつもより高くて、彼におぶさって移動しているのは分 かっている。 「別に大丈夫だって」 優しい口調。 その口調に、リナは気が付いた。 きっと。 ―――そんな風に優しいから、父ちゃんの夢を見たのかな。 それは、ガウリイの耳に届く事はないだろう。 しばらく、大人しくしている内に、懐かしいフレーズが耳に飛び込んできた。 「…この唄」 ガウリイが唄う唄に、リナは懐かしそうな目をした。 父親が聞かせてくれた、子守唄。 「あ。どうかしたか?」 唄を止めて、ガウリイが聞いてくる。 「ん、何でもない」 「そうか」 小さく返して、ガウリイは唄を続けた。 父親が好きだったというメロディーを、ガウリイが知っている。 それが、リナにとって嬉しかったのだ。 「…この唄な、ばあちゃんがよく歌ってくれたんだ」 初めて教えてもらった彼の過去に、ほんの少しの優越感を覚え て。 リナは、ガウリイと共に歩く。 もうすぐ、ゼフェールシティ。 久しぶりの帰郷は、少しにぎやかになりそうだった。 |